2025年3月9日日曜日

海外就職レポート0023 総合商社、東南アジアでのスタートアップ経験を経て仏MBAからの現地就職

さて、今回は10年来の友人でミャンマーにいる際に訪れたこともある方の海外就職の紹介です。総合商社という待遇も良く海外にも任期付きとは言え出やすい仕事を捨て、東南アジアのビジネスの立ち上げからのフランス留学しフランスで勤務という多様な地域に渡る経験の話を聞きました。元々の仕事の経験を活かしうまく仕事を見つけた事に加えて、プライベート、待遇、成長、やりがい全てが高水準で満たされると実感できることはなかなかないことだと思います。それも本人の持つハードスキルに加えて、本人から言及はないですが、文化の違う中で人間関係をうまく作っていく柔軟性や魅力のある人間性があるんだろうと思います。


学生時代の海外志向

  • 神奈川出身で、小中高と野球に打ち込む。大学では国際交流活動に従事。5年在籍のうち1年間はアメリカの州立大学に留学。
  • 幼少期から母親の海外出張やテレビ番組などの影響で海外に憧れを持ち、「留学ならアメリカ」と考え渡米。
  • 留学先はアジア人よりラテン系が多い地域で、外向的なノリに合わせる術を身につけた。


商社就職と早期転職

  • 大学卒業後、グローバルビジネスを目指して総合商社に入社。
  • しかし実態は日本人同士の仕事が多く、グローバルに戦うには不向きと判断し、2年目で退職。


シンガポール・ミャンマーでの事業立ち上げ

  • 人事系の小規模企業に転職し、シンガポールで1年ほど勤務。
  • 日本で獲得した案件の実行が中心だったが、現地法人で直接ビジネスを立ち上げるべく、当時開拓余地が大きかったミャンマーに行き、オフィスを立ち上げ1年半ほど事業を展開。
  • その後、縁のあったクライアント企業に転職を直談判し、人事部門に所属。


フランス赴任とMBA取得

  • 同企業での勤務中にフランス赴任の機会を得て、現地で働くうちに「フランスに残りたい」と考える。
  • 半年ほどの準備でフランスのMBAプログラムに合格し、学生ビザを取得。
  • 比較的フレキシブルなプログラムだったため、在学中にフランス企業でインターン。
  • 半年後、ポジションの空きが出たタイミングで正社員オファーを獲得。COVIDの影響で不安定な時期もあったが、最終的に採用が決まった。


現在の勤務状況と満足度

  • フランスの企業に正社員として働き始めて約5年。
  • 「プライベート、待遇、成長、やりがい」の全てが高水準で満たされており、「これ以上の会社はないかもしれない」と感じるほど充実している。


文化的な適応と働き方

  • シンガポール、ミャンマー、日本、フランスと多国を渡り歩いたが、国の文化よりも会社や所属チームの文化の違いの方が大きいと感じた。
  • 「○○だからこうだ」といった固定観念を持たず、柔軟に適応する姿勢が重要。


今後の展望とアドバイス

  • 現在の会社に大きな満足感があるが、将来的には小規模ビジネスの立ち上げなども視野に入れている。
  • 「世界で戦える」ハードスキルを持つことが大切であり、データやテクノロジー分野での専門性が強みになると実感している。

2025年3月8日土曜日

海外就職レポート0022 アメリカへ留学し製造業から教育分野へキャリア転換

さて、今回は日本の大学に在学中に自身で働きお金を貯め留学、そこからアメリカで働き始めた方の話です。特に印象的だったのは最初は製造業でキャリアを積みつつ教育分野へピボットをした事、またMBA、教育学修士、ブロードレジデンシーなど多様な教育機会を得て積み重ねる事によりキャリアを切り開いている事でした。私も継続的に変化する時代に合わせて勉強をし続けたいと強く思えるインタビューでした。


首都圏の地方公務員の家に生まれ、中学1年生まで英語を学んだ経験はなかったものの、英語は好きな科目だったので熱心に勉強を続けてきた。しかし、帰国子女と同等の英語力を6年間の学習で身につけるのは難しいと感じ、いつか留学したいと思うようになる。大学在学中にアメリカへ1年間の交換留学を経験した際、「やろうと思えばできる」と感じると同時に、「1年では物足りない」と強く思った。


そこで、外資系法律事務所でアルバイトしながら英語を使って資金を貯め、職務経験がなくても受け入れてくれるMBAプログラムを見つけて再渡米。修士課程では2学期目からティーチング・アシスタント(TA)の職を得ることができた。偶然、ジムの前で話した教授がTAの募集を紹介してくれ、翌年も縁があって継続できた結果、学費がほぼ免除になり、多少の給与も得られたため、経済的に支障なく卒業できた。


卒業後は漠然と「日本に帰りたくない」という思いもあり、日系の製造業企業に就職してアメリカで6年間勤務。しかし製造業が自分に合っていないと感じ、転職を考え始める。当時はH-1Bビザのスポンサーが必要だったため、スポンサー企業を探していたところ、教育関連のNPOが日本人を募集していると知り、オファーを受けてビザの切り替えを待ちながら数か月間は前職に留まった。NPOではプログラム運営やファイナンスを含むさまざまな業務を担当し、8年ほど働いたが、そのNPOがM&Aで買収された後にカルチャーが合わず辞職。その後は教育系のキャリアを積み重ね、近年はおよそ50~60校の公立学校が属する学区で学力テストの管理を中心に担当。現在はオペレーション部門にて、学区内におけるプロセス標準化の推進をする業務を進めている。


The Broad Residencyへの参加と現職での取り組み

この教育分野への本格的な転身にあたっては、アメリカの公教育に特化したリーダーシップ育成プログラムである「The Broad Residency in Urban Education」に参加した経験が大きく貢献した。多様な背景の人材と共に学ぶ中で、教育行政の戦略立案やチームマネジメントに必要なスキルを身につけるとともに、自身のキャリアに対する自信が高まり、またプログラムの一環で教育学修士も取得した。現在の学区では大規模な改革プランが進められており、すべての生徒が質の高い学校やカリキュラムに公平にアクセスできるようにする「Rebuilding Stronger」というプロジェクトに携わっている。改革においては、計画準備の段階で学区全体の学力テストや調査データを分析し、コロナ前後の在籍状況を把握する、保護者としての視点を共有するといった面でリーダーシップを発揮している。


保護者としての視点とモチベーション

さらに、自身も子どもを同じ学区に通わせる保護者として、学区が着実に良くなっていることに喜びを感じる一方、「すべての生徒に成功の機会を届ける」という使命感を持って改革に取り組んでいる。学校現場や保護者の視点を踏まえながら教育改革に関われることが大きなモチベーションになっている。


ビザについて

約20年前のH-1Bビザは、制限数に達するまで1か月以上かかることが多く、比較的取得しやすい時代だった。当時のタイミングで思い切って行動したのは正解だったと思っている。


アドバイス

実現したいことが複数ある場合、それらを一度にすべて満たすのは難しい。例えば3つ条件があるなら、2つ満たせれば思い切って飛び込んでみるというマインドセットが大事だ。まず2つを満たしてから、残りの1つを埋めにいく方法もあるため、最初から完璧を求めすぎずに行動を起こしてほしい。

 

2025年3月3日月曜日

海外就職レポート0021 結婚をきっかけにシンガポールに移住し、ジャパンデスクからピボット

 さて、前回と同様に結婚をきっかけに日本から海外へ引っ越し就職した方の紹介です。前回はアメリカでしたが、今回はシンガポールになります。日本で働いた金融の経験を活かしアジアの金融都市であるシンガポールで最初は日本人である事を強みに就職していくものの、少しずつ「日本語もできる事」が強みになっていくプロセスについて伺えました。特に日系企業のいわゆる現地採用には満足いく待遇でない事が多いと感じる事と日本語必須の仕事をしていてはキャリアの幅が狭まる事を聞けたのが印象的でした。

私見では日本経済は未だに大きく、海外に出ていく上では日本企業と仕事ができる事が未だに大きなメリットになると思います。相対的に日本経済の魅力が下がっていく中、早めにその強みを活かして海外に出ていく事は大事だなと感想を持ちました。

移住のきっかけ

  • 日本で日系・外資系の金融機関に勤務し、リテール営業や審査部門など幅広く経験。
  • 仕事のプロジェクトで出会ったシンガポール人男性と結婚し、彼がシンガポールへ戻るタイミングで一緒に移住を決意。2016年9月に渡星した。


シンガポールでの就職と転職

  • 渡星当初は無職だったが、たまたま米系金融機関が日本人を募集しており、2週間ほどで内定を得る。
  • その後、LinkedIn経由で別の金融機関から連絡があり、1週間ほどで転職が決まる。フロントからバックオフィスまで幅広い業務経験が、国を越えても採用されやすい理由だった。

職場文化の違い

  • シンガポール特有の文化よりも、会社ごとの文化の差に驚きがあった。例として「もうご飯食べた?」と日常的に聞いてくることなどが新鮮だった。
  • AIプロジェクトをはじめとする先進的な取り組みが進むアジアの一方で、日本は言語や商慣習の壁が原因でプロジェクトから外れがちである現実を知り、ショックを受けた。


日本語スキルとキャリアのジレンマ

  • 日本語が武器になるおかげで採用されやすい面はあるが、同時に「日本語必須」のポジションしか選べないリスクもあり、キャリアの選択肢が狭まるジレンマを感じる。
  • 日系企業のポジションは給与や労働環境の面で厳しいことが多く、日本語が「必須」ではなく「追加スキル」となるポジションを目指すようになった。
  • 渡星して8年ほど経った現在の仕事は、日本語が絶対条件ではない役割を得ており、より幅広いキャリアを築けている。


今後の展望とメッセージ

  • 結婚を機に予期せぬ形で海外へ飛び出すことになったが、シンガポールでの生活や仕事を通じて日本の置かれた国際的な状況を実感。
  • 「日本語ができます!」だけでは通用しにくく、「日本語もできます」というポジションが重要になっていると感じる。
  • 結婚によって当初の日本でのキャリアプランは変わったが、海外で幅広いチャンスを得られたことで視野が広がった。いまも「シンガポールに住んでいるのが不思議」と感じる瞬間があるが、結果的に多くの可能性と学びを得ている。

2025年3月2日日曜日

海外就職レポート0020 米国へ結婚移住し看護師の経験を活かし新しい資格を得て病院勤務

 さて、今回はご結婚をきっかけにアメリカに移住し、日本で看護師として働いた経験と新しいアメリカでの資格を活かし働いている方のお話を伺いました。特に印象的だったのは医療の現場での役割分担が大きく違い、働き方や待遇においてかなり改善されたという事という事でした。日本で働く中で専門職の方へメッセージが届けば良いなと思います。また、今後は看護師の資格を切り替えていく事も検討しているとの事で、発展していく事を願っています。

背景

経緯2015年にアメリカ人と結婚し、いつかアメリカに移住する想定で過ごしていた。 数年後に配偶者ビザのプロセスを開始し、ビザが下りた2019年にアメリカに渡米。 渡米後、資格取得と就職準備の下地作りのためカレッジのESL(英語学習コース)へ通い、文化的な理解を深めた。就職には直接役立たなかったが、人生経験としてはプラスになった。 日本で看護師として幅広い業務を経験していたが、アメリカでの資格のコンバートには時間と費用がかかるため、まずは採血技師の資格(2021年取得)を取得。資格取得の実習で訪れた病院に好印象を持ち、マネージャーやトレーナーとも関係が良好だったためその病院に応募したところすぐに採用が決まった。 現在はシニア採血技師として働きながら、契約のある施設からの検体の回収や手術専門病院への輸血血液配送(Courier業務)なども担当し、保険認証業務や事務的なエラー対応など責任範囲が広がっている。


アメリカと日本の仕事の差

日本では保助看法の下、診療上の補助と療養上の世話を含む多種多様な業務を看護師が担っており各個人の実務的な負担が重い。 アメリカは職務分担が明確で、日本では看護師がやる業務を看護助手が担い、患者の移送には専門のスタッフが配置されるなど看護師が専門分野に集中できる仕組みが整っている。日本での社会生活で染みついた「担当外でも自分でやる」習慣が、アメリカでは職務範囲外と見なされる場合があり、調整が必要。  給与や福利厚生も充実しており、例えば勤務しているグループ内の病院やクリニックの受診時に医療費割引制度などがある。SV昇進の可能性もあるが、給与と負担やストレスを照らし合わせると、看師資格取得することで収入の増加だけでなく多様な働き方をするようシフトすることを考えている。


これから海外で働く人へのメッセージ

「アメリカの仕事環境は日本よりも分業が進んでおり、待遇もいい。状況が許すのであれば、自身の可能性を広げるためにぜひ日本から飛び出して羽ばたいてほしい。海外生活で多様な価値観に触れることが自身の成長につながるだけでなく、日本での生活からは得られない将来への展望が見えてくることもある。」というメッセージを送っている。

2025年2月24日月曜日

海外就職レポート0019 日本で公務員として勤務後、台湾にて戦略的に日本語に依存しないキャリアへピボット

さて、今回は日本で公務員として勤務された後に台湾に引っ越しした方のお話で初めは日本人や日本語を話せる事を強味にしていても、少しずつ別のスキルを鍛えたり、追加でMBAを取る事で日本語関連のスキルへの依存を減らしていく例の話を聞きました。海外に急にロケーションが変わるだけで大きな変化なので、仕事や職種を維持しロケーションだけ変えて、他の部分は理想状態に一つずつ片足ずつピボットするように変えていく事は理想形の一つだと思っています。

 海外キャリアインタビューまとめ

  • 日本での背景・学生時代

    • 九州の地方出身で、英語とはほとんど縁がなかった。
    • 小学校時代に少し英語を学んだ程度で、本格的な留学経験はなかったが、中学生のときに外国人へインタビューをして以来、海外へのあこがれを持つようになった。
    • 大学卒業直前に三週間の語学留学を経験。
  • 看護学科から地方自治体へ

    • 看護学科を卒業し病院見学も多数行ったが、自分の働く姿がイメージできなかった。
    • 保健師の資格を取得し、地方自治体で数年間勤務。
    • 短期留学時代から海外志向があり、遠距離恋愛中のパートナーが台湾にいたこともあって台湾への移住を決意。
  • 台湾での学びと仕事

    • 台湾の大学で約1年、中国語(中文)を学ぶ。
    • その後、米系企業の台北拠点に就職(日本語・英語・中国語が必要な仕事)。初の民間企業での職務や台湾独特の職場文化(出勤後に朝食をとる、ジュースなど色のついた飲み物を堂々と飲む習慣、お昼寝、下午茶等)に驚きがあった。
    • ヘルスケア業界を中心に転職を2回経験し、現在は台湾の会社に在籍。仕事を続けながらMBAにも通い、昨年卒業した。
  • MBA取得の経緯とキャリア観

    • 最初に勤めた台湾の企業で、上が詰まっているように感じたため「長く待つか転職するか」しか選択肢がないと感じていた。
    • ビジネスパーソンとして成長するにはMBAが役に立つのではと考え、働きながら通学。MBA入学直前に声がかかり転職が決定。
    • MBAではマーケティングに最も興味を持ち、現時点ではマーケティングを軸にキャリアを積んでいきたい。
    • 日本語が強みとなり仕事を得た部分もあるが、言語力に依存しない専門スキルを磨きたいという思いがある。
  • 海外で働きたい人へのメッセージ

    • 人に話を聞くのも大事だが、実際に面接を受けるなど行動に移すことが重要。
    • 行動を積み重ねることで学びを得て、憧れを現実に近づけられる。
    • 看護助手としてワーキングホリデーでオーストラリアに行った友人の例など、「行けるんだ」と背中を押してくれる存在がいると大きい。医療ヘルスケアの人材は色んな形で海外に挑戦できると思う。是非様々な可能性を模索してみてください。
    • 海外に出たい気持ちがあるなら、ぜひ自分で行動を起こして道を切り開いてほしい。

2025年2月16日日曜日

海外就職レポート0018 アメリカの大学を卒業後、日本を経由してアメリカへ

さて、今日も引き続きアカデミア寄りの方のキャリアについてご紹介しようと思います。次回以降はビジネス寄りに戻る予定です。いやー、他人である私からすると波乱万丈!と言った人生なのですが、生きる強さと感じとても尊敬できる方でした。ちょっと仕事で私と交差している点もあったりして本当偶然を感じました。一度日本に帰国すると海外に出にくいと言われることが結構多いと思うのですが、継続的に改善と成長を続け、進みたい方向に進んだ結果、また海外に出た方のプロセスに勇気をもらう方も多いと思います。

  • 日本での幼少期・学生生活

    • 在日コリアンとして日本で育ち、高校まで朝鮮学校に通う。
    • 親の意向で早く小学校に入学し、大検を取得するも当時は年齢の関係で日本の大学に進学するには浪人が必要だった。
    • 図書館で見つけたアメリカ大学ガイドをきっかけに、ニューヨークのコミュニティカレッジへ応募。しかし、実際に行ってみるとNYCから3時間も離れた田舎で、自分の育った場所よりも田舎だった。
  • コミュニティカレッジから四年制大学へ

    • 2年間のコミュニティカレッジ在籍中、教授に気に入られ、Tutor(家庭教師や学習アドバイザーのような役割)として働きながら学ぶ。
    • 小規模な環境でプレッシャーも少なく、図書館などのサポートが手厚かった。知らないうちに四年制大学への出願をサポートしてくれており、結果的に奨学金をもらって別の四年制大学へ転学。会計学を専攻する。
  • 日本への帰国とキャリアの変遷

    • アメリカで会計関連の仕事をしようと考えたが、兄が愛知県でレストランを開業することになり、約2年手伝うために帰国。
    • その後、東京の貿易会社に転職し、上場したばかりの企業(コンサル会社)で部署250名が男性の中3人目の女性総合職として勤務。
    • 同時に日本の国立大学でMBAを取得。
  • 再びアメリカへ:国際機関と結婚

    • 大学時代からの恋人と結婚することになり、ビザがない状態でアメリカへ移住。近所にあった国際機関でボランティアとして働き始め、ビザを取得すると同機関に就職(財務管理)。
    • 東日本大震災の際は、アメリカから日本を支援する形で駐在。
  • 博士課程への道

    • 以前から博士課程に進みたいと考えており、アメリカに戻ってアイビーリーグ大学の約40のポジションに応募。(職員は学費が無料)
    • 採用されたものの、コロナ禍やアジア系へのヘイト増加などの環境変化で辞職。(修士修了)
    • 他大学の職員をしながら、現在はカリフォルニアの大学で博士課程を進めている。

2025年2月10日月曜日

海外就職レポート0017 PhDを日本で取得したあとポスドク以降アメリカへ

さて、今日は引き続き研究畑の方のご紹介です。特に印象的だったのは日本では主に評価されるのは時間的なハードワークであり、それが評価されると時間的なハードワークから抜け出しにくくなってしまうが、それを抜け出しアメリカに来て比較的満足度高く働いてらっしゃる方の話はとても印象的でした。


日本での学びと経歴獣医資格を取得したあと、日本で博士課程へ進学。民間財団からの資金援助を受けつつ博士号を取得し、博士取得後に1年ほど研究に携わる。

その後、指導教員(ボス)が獲得したプロジェクト型のグラントを利用し、アメリカ東海岸でポスドクとして約5年間勤務。


アメリカ就職への転機ポスドク途中で、「アメリカでやっていけそう」と感じて転職活動を始める。

約60のポジションに応募し、10大学のオンライン面接、3大学の現地面接を経て、2大学からオファーを得る。

現在は福利厚生が比較的充実した環境にいるが、かつての有期雇用時代は保険や年金、家賃などの負担が大きく、手取りが少なく苦労が多かった。

ポスドクの魅力と孤独ポスドク時代は好きな研究に打ち込める点が大きな魅力だったが、研究室内で気軽に雑談や相談ができる仲間がいなかったことが精神的につらかった。

英語でのやりとりに苦労し、話しかけられてもスムーズに返せず凹むこともあったが、半年ほどで徐々に慣れていった。

海外を選んだ理由と日本への思い「日本にいたくない」という気持ちが強かった。また、博士課程の頃は学振に落ち続け、奨学金(実質的には学資ローン)がどんどん積み重なっていった。

日本では長時間労働(8時~22時など)が当たり前で、それが推薦状に“ハードワーク”として書かれることが多い。そうした働き方を続けたくない思いが、海外でのポスドク生活を選ぶきっかけになった。

まとめ好きな研究をするため、ポスドクとしてアメリカへ渡ったが、その過程で孤独や言語の壁、経済的な苦労を経験した。

それでも、「日本にいたくない」「過酷な労働環境を変えたい」という強い動機が支えとなり、海外でのキャリアを切り開くに至った

今後海外を検討する方へのメッセージ

ぼくと違い日本で恵まれた環境にいる皆さんには海外に行く選択肢はメリットがなく、ただ無謀な選択だと結論するかもしれません。しかし海外に行った人で、海外での経験を後悔していると答えた人を見たことがありません。あなたのような才溢れる研究者こそ海外に行き、持つ能力をさらに引き出すことべきであり、その行動が日本の研究の未来に一石を投じる結果になるのではないでしょうか?

みなさんの挑戦を、遠きアメリカ中西部より心より応援しております。

2025年2月9日日曜日

海外就職レポート0016 PhDをイギリスで取得しポスドクからのフルタイムへ

さて、今回は大学時代からの友人に協力してもらってインタビューをしてみました。大学時代に部活動で一緒に頑張って友人の発展のストーリーや今まで聞いた事がなかった苦労話等も聞けて良い機会になりました。さて、ストーリーそのものですが、博士号を取って現地で就職するのは比較的再現性の高いルートな可能性が高そうです。ビザを取る上で色々な国で優遇される事も多く専門性という意味でも証明はばっちりですしね。

私の専門分野では、日本の研究者の多くが国外で学位を取得していたため、私もPhDは国外で取得したいと考えていた。奨学金の機会にも恵まれ、イギリスでPhDを取得。その後、一度日本に帰るとキャリアの選択肢が狭まり、一方通行のように感じたため、イギリスで就職活動を開始した。


イギリスの人文・社会学系の分野では、PhD取得後はポスドクとして職を得るのが一般的である。そこで、フェローシップ型(自身の研究を進めるスタイル)とプロジェクト型(特定のプロジェクトのためのポスドクで、比較的採用されやすいもの)の両方に多数応募した。その後の就職活動も含めると、博士課程修了までに15件、博士修了後の4年間で52件の応募を行った。


プロジェクト型のポスドクとして2つの大学で約3年半勤務したが、その後の職がなかなか見つからず、一度日本に帰国することとなった。ただ、帰国直前に面接を受けていた助教授レベルの現職に採用され、ぎりぎりのところでイギリスに残る道が開けた。


しかし、ビザの関係で帰国後すぐにイギリスへ戻ることはできず、再渡英の前に、博士論文の審査員を務めてくださった方が所属するドイツの大学で半年間ポスドクとして勤務した。その後、日本でイギリスのビザ申請を経て、再びイギリスに渡った。


現在の職は任期の定めがなく、ポスドクよりはるかに安定している。しかし、イギリスの大学では、採算が取れない分野のプログラムを廃止し、教員をレイオフすることも珍しくない。そのため、今後も安定しているとは限らず、レイオフされても次の職を得られるよう、研究業績をはじめとする競争力を維持しておくことが重要だと考えている。


日本への本帰国も検討しているが、日本の大学では研究・教育以外の業務負担が大きく、帰国すれば研究業績の低下や競争力の減少は避けられないと予想されるため、まだ決断には至っていない。


【若手研究者へのアドバイス】

分野にもよるが、研究は国に左右されにくいため、研究職は国外勤務を目指しやすい職の一つだと思う。特に博士号を国外で取得すれば、その可能性は十分に広がる。海外での研究職を視野に入れるのも良いのではないだろうか。

2025年2月2日日曜日

海外就職レポート0015 基地での仕事から大学院へ留学後在米へ

さて、今回は日本では短大卒業後、日本の基地で働き、大学院留学後に博士まで取ったあと基地の経験を活かしてアメリカに残って働いている方のお話を聞く事ができました。とても柔らかい雰囲気の方で話を聞いていてとても穏やかな気持ちになり、きっと強さがある方だからこそ柔らかい雰囲気を持ちつつアメリカで生き残っているのだろうなと感じました。就職という面において特筆すべきだと思ったのは基地の経験がアメリカでの最初の仕事に役に立った事だと思います。抽象化すると面接官がCVを見た時に「あー、こういう仕事をしてたって事は多分こんな事をするのは問題ないんだろうな」って思ってくれるような経歴を持つことの大切さです。基地を選ぶ方は初めて会いましたが、とても意味のある経験だと思いましたし、海外でも名前の知られたイメージしやすい仕事に就く事は海外で働く上で有利にしてもらえる事が実感できます。とても素晴らしいお話をありがとうございました。

まとめると今回のポイントは「働きたい国で働く上で分かりやすい職歴を積む」事で海外で働く事のカギとなる要素だと思いました。


背景

日本の短大を卒業後、日本の会社で事務職として約1年勤務。その後、在日米軍に入職し、IT関連の仕事を経験。IT職で貯めた留学資金で渡米。

学業面では、学士号取得後に博士課程へ進学。単位取得退学し、修士号を取得。大学院の費用は全額免除され、ティーチング・アシスタントシップやリサーチ・アシスタントシップで得た奨学金(Stipend)で生活を賄っていた。

2002年にアメリカ西部に移住し、大学院まで進学。ニューヨークで2年半働いた後、カリフォルニアに転居。カリフォルニアは気候が良く、海や山が近い点や日本に帰りやすい点を気に入っている。

大学・大学院での専攻とは異なる分野で就職活動を行い、言語学での就職が難しかったため、ITの経験を活かしシステム監査の仕事に就く。就職先はLAキャリアフォーラムとボストンキャリアフォーラムを通じて探した。FビザからOPT、さらにH-1Bに切り替え、アメリカでの生活基盤を築いた。

働き始めた直後にリーマンショックを経験。ニューヨークでリーマンブラザーズのオフィス近くを訪れた際、社員が箱を運び出している光景が印象的だった。その後、社内トランスファーを通じてカリフォルニアに異動。


移行プロセス

短大卒業後、家族のために働きながらも大学進学を目指していた。英語は社会人になってから独学で始め、基地での職務では更に実践的なスキルを学ぶ機会があり、アメリカの方がチャンスが多いと考え移住を決断。


スキルと準備

基地内で提供されていた米国の大学の授業を2年ほど夜間とオンラインで受講し、学びを深めたことが大きな助けとなった。また、留学前に志望大学に連絡を取り、トランスファーが可能なクラスのみを受講し一般教養科目は終了しておいたため、留学費用を削減できた。


就職活動

LAキャリアフォーラムとボストンキャリアフォーラムを活用。ウォークインで企業と面談し、オファーを受けることができた。LAで日本でのオファーを受け、ボストンで交渉した結果、同法人のニューヨーク勤務にオファーを変更。キャリアフォーラムに参加していなければ、日本に帰国していた可能性が高い。


文化適応

基地内で働いていたため、他の移住者と比べてカルチャーショックが少なかった。基地の環境で英語を使用する日常が適応を助けた。


職場文化

在日米軍基地での勤務経験が英語での業務能力を示す証明となり、面接官の信頼を得る助けとなりオファーが受けられた。経歴が明確であったことが自己アピールに役立った。


長期的な目標

現在の仕事は実務としては携わっているものの、体系的な学びが不十分な分野について学びを深めたいと考えている。アメリカ移住時には帰国しないと決めていたが、将来的にはハイブリッド生活を目指している。


これから海外就職する人へのアドバイス

「自分には関係ない」「自分には無理」と思わずに挑戦してほしい。キャリアフォーラムはチャンスが多いので参加を勧める。ウォークインでの面談からオファーを得た経験があるため、直接話をする場を活用することが重要。

2025年1月27日月曜日

海外就職レポート0014 研修医後オーストラリアへ移住

さて、今回は研修医を終えたあとオーストラリアに移住し、医師として働く人の紹介です。特に印象的だったのは、最初のステップは地道な活動だった事です。知り合いや学会でのつながりを活用して最初のポジションを取ったとの事ですが、特に明確なコネクションや期待があった訳でもないにも関わらず現地に行きコーヒーチャットをたくさん行う事がきっかけだったそうです。医師というアドバンテージがあるとは言え、国を越えてキャリアを切り開く上では地道で能動的なアクションが有効だったという事は多くの人に示唆があると思います。


背景

高校時代に各国代表が集まるキャンププログラムに参加。日本の医学部で6年間学び、後半は2–3か月ごとに海外の国際機関やNPO、研究室を経験。卒業後は初期研修医を2年間務め、その後オーストラリアに移住。


移行プロセス

初めは無給の研究ポジションを探し、知り合いや学会でのつながりを活用して獲得。

2年目以降、労働ビザを取得して臨床医として働き始めた。


文化適応

雑談や医療用語の違い(例: エピネフリンとアドレナリン)に慣れる必要があった。

患者とのコミュニケーションに大きな問題はなかったが、言外の背景の共有に課題を感じた。


長期的な目標

現在のキャリアを進めつつ、オーストラリアでの生活を継続する予定。

様々な要因に柔軟に対応しながらキャリアを形成していきたい。


メッセージ

大学入試は公平性があったが、その後のキャリア形成は人との縁や積み上げが大きな影響を与える。

自身の興味や目標に応じて柔軟に進むことが重要。

2025年1月26日日曜日

海外就職レポート0013 ヨーロッパの大学を出てそのまま就職

 さて、今回はヨーロッパに勤める比較的働き始めて経験の少ない人にインタビューをする事ができました。もともと国際的な経験のあった方で言語や文化面での問題が少なかったのはあると思いますが、何より自分の志望する業界を早く絞った事とその業界の中でキーとなる人たちからの信頼を積み上げていった事がうまくいっている要素なんじゃないかなと話を聞いていて思いました。

背景

20代中盤でヨーロッパにて日系五つ星ホテルに勤務中。営業職を担当。

大学はオランダ・アムステルダムでホテル専攻を卒業。ホテルにフォーカスしたMBAに近い内容を学んだ。

台北、アムステルダム、東京で生活した経験があり、アムステルダムには通算12年住んでいる。

言語は日本語と英語を話す。

中学生以降はインターナショナルスクールに通い、高校は台湾、大学はアムステルダムを卒業。


移行プロセス

アムステルダムの大学を卒業後、一年間自由に働けるビザを取得。その後、雇用先から高技能労働者ビザを発行してもらい、就職。

アムステルダムに戻りたい気持ちと英語でビジネスを学ぶ目的でオランダの大学を選択。


その他の活動

本業とは別に、日本酒のイベントなどを開催。


長期的な目標

現在のキャリアを基盤に、アムステルダムでの生活と仕事を継続。


メッセージ

海外で働くためにはビザの仕組みや選択肢を知ることが重要。卒業後に得られるビザ制度を活用するのがおすすめ。

2025年1月19日日曜日

海外就職レポート0012 駐在という海外フラグをきっかけに国際機関へ

さて、今回は現在国際機関でプロジェクトマネジメントの責任者をする方にインタビューをしました。またとても楽しいインタビューだったのですが、過去のインタビューも含めて思った事としては、「海外フラグ」が海外就職をする上では大切なのかなと思っています。海外フラグとは周りの人がその人に対して海外で働く事に対して問題がないだろうと思われるという概念なのですが、それを早く立てる事が大切で一番簡単なのは海外就職を経験する事です。鶏と卵みたいな話なのですが、一度経験した人にはより多くのチャンスが回ってくるという事も事実であり、その最初のチャンスを早く手に入れる事が大切です。それが留学だったり、海外駐在だったりするのですが、今回の方の場合はキャリアの初期段階で海外駐在をしていた事がかなり影響を及ぼしていそうです。

また、加えてコンサルティングファームで実際に関わっていた国際機関に就職したという事でそこでも一定程度の信頼がすでにおそらくあり、フランスに実際にいなかったものの現地の組織においてソーシャルキャピタルが築けていたのではないかと想像しています。

なので、今回の海外就職の示唆としては以下です。

  • 海外フラグをできるだけ早く立てる
  • ソーシャルキャピタルを築いてそれを使って転職をする
では、インタビューまとめは以下の通り。

背景

日本の国立大学を卒業。授業の三分の一ほどが英語で行われており、早くから国際的な環境に触れていた。新卒では日本企業に国際事業を前提に入社、中国担当になる。初めての中国出張中に9.11が起きたが街は通常通り働いており、「これからはアジアの時代だ」と確信した。

その後、香港でMBAを取得。小さくても組織のトップを目指したいと考え、インドで支店長を務める。規模に関係なく、組織のトップとして責任を持つ経験を重視してきた。13年にわたって海外でキャリアを築いたが、日本に戻った際、本社の一担当としての役割で成長曲線が緩やかになる事を感じたため、厳しい競争的な環境への転職を決意。30代半ばで戦略コンサルティングファームに転職し、マネージャーに昇進。その後、公的プロジェクトで関わった国際機関のポジションに直接応募し、フランスへ移住。現在はプロジェクトマネジメント責任者。

文化適応

中国勤務時には業務は英語、日常会話を中国語で行っていた。現在の国際機関では日常的に多少フランス語を使うが、英語が業務での共通言語となっている。

家族と教育

子どもは現地のインターナショナルスクールに通学。家では日本語、学校では英語とフランス語で育っている。

長期的な目標

40代では自己の成長よりも「世の中の何に貢献できるか」を重視しており、現在の仕事がその目標に合致しているため、今後も同じポジションで働き続けたいと考えている。人はManageするのではなく、Leadするものだと信じている。

メッセージ

駐在や社費留学は個人の能力と将来の可能性を伸ばす絶好の機会であり、これをうまく活用することが重要。とにかく海外で能力を発揮したい&できる人材となる事が、次の海外就職の近道になる。

2025年1月13日月曜日

海外就職レポート 0011 日本で就職後、米国へ修士博士留学し就職

   今回は日本で就職後米国に留学し博士まで取得し、米国でそのまま就職した方の例を紹介します。博士からの留学自体はとても素晴らしいですが、何よりもっと素晴らしいと思ったのは授業料免除に加えてお金をもらって修士から学べた事だと思います。盛り上がりそうだなと思った業界に行った結果、かなり良い条件で自分のキャリアアップができていて、現在につながっているところがポイントかなと思います。こういった意思決定の質の高さと行動の早さが良い結果につながっているのでしょう。

背景

地元の公立高校を卒業後、アメリカの大学に留学。中退後、数年間派遣などで働き、日本の大学に三年次編入。卒業後は数年間働いた後、情報系の修士号をアメリカで取得し、さらに博士号を取得。以降はデータサイエンスを軸にしたキャリアを築いている。2010年代前半だったため、当時は情報系大学院課程への競争が少なく、現在よりは楽に入学できた。


移行プロセス

修士課程と博士課程は同じ大学の同じ学部内で進学した。修士課程から授業料免除かつStipendが得られたので、学費負担なく学ぶことができた。


スキルと準備

PhD課程は一般的にストレスが非常に高く、修了が難しいと言われるが、学部長や指導教官の支援で課題が軽減。特に、リサーチアシスタント(RA)として仕事経験を積ませてもらえる環境が整っており、指導教官の先生も非常に丁寧にコミュニケーションを取ってくれたため、研究もストレスが少なく、仕事を得るための準備もできた。


就職活動

所属大学内でデータサイエンス系の仕事を探した。大学内の博士課程で研究していたため、すでに信用があり、比較的スムーズに仕事を見つけることができた。


文化適応

2021年に就職をしたが、コロナが終わりかけの時期でリモートスタートだったため特有のやりにくさがあったが、少しずつ環境に適応。


職場文化

研究室やグラントごとに多岐に渡るプロジェクトに参画できる。


長期的な目標

自分自身の目標の多くは叶ったので、今後は子どもにとってベストな環境を選んでいきたい。


これから就職する人へのアドバイス

情熱があることをやるのが重要。やりたいことにリスクを取って挑むべき。 日本にとどまるのも、海外に出るのも両方リスクはあるし、それぞれにメリット・デメリットもある。比較をして有利な生き方を考えることを否定はしないが、自分がやりたいことを選んでいかないとなかなか長続きしないし、逆にやりたくないことを長続きしても意味がない。


その他の願い

アメリカの教育環境が気に入っている。特にLeadershipとCreativityを重視する教育は日本も参考にしてほしい。

2025年1月6日月曜日

海外就職レポート 0010 日系企業の駐在、MBAを経て独立

さて、今回は日系企業で駐在を通じて海外経験を経て、MBA留学、その後ジェネラルマネージャーを経験して独立した方の紹介です。聞いていてとても面白く、自分で切り開いた感じがあってとても良いインタビューでした。特に印象に残ったのは、

  • 海外で勤務する事を目指し日系企業へ就職をした
  • 転職後も海外駐在の経験をフラグ立てとして、さらなる海外経験を重ねた
  • MBAとマネジメント経験はシグナル効果としてあるものの、本人の重ねた信頼が大きい
という点でした。日系企業は配属リスクがあるというもののその中でもしっかりうまく道を切り開いた方の例でした。

背景

日本の大学四年生の時に一か月の語学留学を経験。卒業後、日本企業に就職し、八年間勤務。その間、中国、アメリカ、フィリピンの三か国での駐在を経験し、ほぼ海外勤務だった。新卒での就職先は海外でのキャリア形成を視野に入れ、日本企業を選択。大学時代から志していたMBAをイギリスで取得。 MBA取得後、以前の職場から声がかかりフィリピンで再び勤務。その後、現地社長を数年務めた後、特に次の計画を立てずに退職。その結果、様々な仕事が舞い込み、それを事業として独立。キャリア設計はMBAまで計画的だったが、それ以降は信頼や経歴、学歴のシグナル効果とフットワークの軽さが後押ししていると感じている。

移行プロセス

駐在から独立に移行。そのまま現地に残る形で活動を継続。

課題

移住において大きな課題は特に挙げていないが、駐在から始まったため、既存の職場環境や支援があった点が移行を容易にした。

文化適応

駐在を通じて様々な文化を経験していたため、大きなギャップを感じることなく適応できた。

スキルと準備

MBAでの学びや駐在時代の経験が基盤となった。特に、異文化理解や幅広い業務の遂行能力が役立った。

就職活動

駐在やネットワーキングを通じた繋がりを活用。MBAや駐在経験が信頼性を高める重要な要素となった。

ネットワーキング

駐在やMBAを通じて広がった人脈がキャリア形成に大きく寄与。特に、現地の経営層や同僚との繋がりが重要だった。

職場文化

海外の職場文化においては、全責任を負うジェネラルマネージャーとしての経験が、柔軟性と包括的な視点を養うきっかけとなった。

長期的な目標

現時点では具体的な目標は定めていないが、東南アジアをコアとし、この地域での活動をさらに深めていきたい。

今後海外にチャレンジしたい方へ

好きな国を見つけることが重要。自身は最初、日本以外で働きたいというモチベーションからスタートし、その後東南アジアにシフト。最初の海外駐在がキャリアのきっかけとなり、その後の展開に繋がった。早めに海外フラグを立てる方法を模索するべき。

その他

ジェネラルマネージャーとして全責任を負った経験から、必要なものは何でもやるという姿勢を持っている。