2025年3月9日日曜日

海外就職レポート0023 総合商社、東南アジアでのスタートアップ経験を経て仏MBAからの現地就職

さて、今回は10年来の友人でミャンマーにいる際に訪れたこともある方の海外就職の紹介です。総合商社という待遇も良く海外にも任期付きとは言え出やすい仕事を捨て、東南アジアのビジネスの立ち上げからのフランス留学しフランスで勤務という多様な地域に渡る経験の話を聞きました。元々の仕事の経験を活かしうまく仕事を見つけた事に加えて、プライベート、待遇、成長、やりがい全てが高水準で満たされると実感できることはなかなかないことだと思います。それも本人の持つハードスキルに加えて、本人から言及はないですが、文化の違う中で人間関係をうまく作っていく柔軟性や魅力のある人間性があるんだろうと思います。


学生時代の海外志向

  • 神奈川出身で、小中高と野球に打ち込む。大学では国際交流活動に従事。5年在籍のうち1年間はアメリカの州立大学に留学。
  • 幼少期から母親の海外出張やテレビ番組などの影響で海外に憧れを持ち、「留学ならアメリカ」と考え渡米。
  • 留学先はアジア人よりラテン系が多い地域で、外向的なノリに合わせる術を身につけた。


商社就職と早期転職

  • 大学卒業後、グローバルビジネスを目指して総合商社に入社。
  • しかし実態は日本人同士の仕事が多く、グローバルに戦うには不向きと判断し、2年目で退職。


シンガポール・ミャンマーでの事業立ち上げ

  • 人事系の小規模企業に転職し、シンガポールで1年ほど勤務。
  • 日本で獲得した案件の実行が中心だったが、現地法人で直接ビジネスを立ち上げるべく、当時開拓余地が大きかったミャンマーに行き、オフィスを立ち上げ1年半ほど事業を展開。
  • その後、縁のあったクライアント企業に転職を直談判し、人事部門に所属。


フランス赴任とMBA取得

  • 同企業での勤務中にフランス赴任の機会を得て、現地で働くうちに「フランスに残りたい」と考える。
  • 半年ほどの準備でフランスのMBAプログラムに合格し、学生ビザを取得。
  • 比較的フレキシブルなプログラムだったため、在学中にフランス企業でインターン。
  • 半年後、ポジションの空きが出たタイミングで正社員オファーを獲得。COVIDの影響で不安定な時期もあったが、最終的に採用が決まった。


現在の勤務状況と満足度

  • フランスの企業に正社員として働き始めて約5年。
  • 「プライベート、待遇、成長、やりがい」の全てが高水準で満たされており、「これ以上の会社はないかもしれない」と感じるほど充実している。


文化的な適応と働き方

  • シンガポール、ミャンマー、日本、フランスと多国を渡り歩いたが、国の文化よりも会社や所属チームの文化の違いの方が大きいと感じた。
  • 「○○だからこうだ」といった固定観念を持たず、柔軟に適応する姿勢が重要。


今後の展望とアドバイス

  • 現在の会社に大きな満足感があるが、将来的には小規模ビジネスの立ち上げなども視野に入れている。
  • 「世界で戦える」ハードスキルを持つことが大切であり、データやテクノロジー分野での専門性が強みになると実感している。

2025年3月8日土曜日

海外就職レポート0022 アメリカへ留学し製造業から教育分野へキャリア転換

さて、今回は日本の大学に在学中に自身で働きお金を貯め留学、そこからアメリカで働き始めた方の話です。特に印象的だったのは最初は製造業でキャリアを積みつつ教育分野へピボットをした事、またMBA、教育学修士、ブロードレジデンシーなど多様な教育機会を得て積み重ねる事によりキャリアを切り開いている事でした。私も継続的に変化する時代に合わせて勉強をし続けたいと強く思えるインタビューでした。


首都圏の地方公務員の家に生まれ、中学1年生まで英語を学んだ経験はなかったものの、英語は好きな科目だったので熱心に勉強を続けてきた。しかし、帰国子女と同等の英語力を6年間の学習で身につけるのは難しいと感じ、いつか留学したいと思うようになる。大学在学中にアメリカへ1年間の交換留学を経験した際、「やろうと思えばできる」と感じると同時に、「1年では物足りない」と強く思った。


そこで、外資系法律事務所でアルバイトしながら英語を使って資金を貯め、職務経験がなくても受け入れてくれるMBAプログラムを見つけて再渡米。修士課程では2学期目からティーチング・アシスタント(TA)の職を得ることができた。偶然、ジムの前で話した教授がTAの募集を紹介してくれ、翌年も縁があって継続できた結果、学費がほぼ免除になり、多少の給与も得られたため、経済的に支障なく卒業できた。


卒業後は漠然と「日本に帰りたくない」という思いもあり、日系の製造業企業に就職してアメリカで6年間勤務。しかし製造業が自分に合っていないと感じ、転職を考え始める。当時はH-1Bビザのスポンサーが必要だったため、スポンサー企業を探していたところ、教育関連のNPOが日本人を募集していると知り、オファーを受けてビザの切り替えを待ちながら数か月間は前職に留まった。NPOではプログラム運営やファイナンスを含むさまざまな業務を担当し、8年ほど働いたが、そのNPOがM&Aで買収された後にカルチャーが合わず辞職。その後は教育系のキャリアを積み重ね、近年はおよそ50~60校の公立学校が属する学区で学力テストの管理を中心に担当。現在はオペレーション部門にて、学区内におけるプロセス標準化の推進をする業務を進めている。


The Broad Residencyへの参加と現職での取り組み

この教育分野への本格的な転身にあたっては、アメリカの公教育に特化したリーダーシップ育成プログラムである「The Broad Residency in Urban Education」に参加した経験が大きく貢献した。多様な背景の人材と共に学ぶ中で、教育行政の戦略立案やチームマネジメントに必要なスキルを身につけるとともに、自身のキャリアに対する自信が高まり、またプログラムの一環で教育学修士も取得した。現在の学区では大規模な改革プランが進められており、すべての生徒が質の高い学校やカリキュラムに公平にアクセスできるようにする「Rebuilding Stronger」というプロジェクトに携わっている。改革においては、計画準備の段階で学区全体の学力テストや調査データを分析し、コロナ前後の在籍状況を把握する、保護者としての視点を共有するといった面でリーダーシップを発揮している。


保護者としての視点とモチベーション

さらに、自身も子どもを同じ学区に通わせる保護者として、学区が着実に良くなっていることに喜びを感じる一方、「すべての生徒に成功の機会を届ける」という使命感を持って改革に取り組んでいる。学校現場や保護者の視点を踏まえながら教育改革に関われることが大きなモチベーションになっている。


ビザについて

約20年前のH-1Bビザは、制限数に達するまで1か月以上かかることが多く、比較的取得しやすい時代だった。当時のタイミングで思い切って行動したのは正解だったと思っている。


アドバイス

実現したいことが複数ある場合、それらを一度にすべて満たすのは難しい。例えば3つ条件があるなら、2つ満たせれば思い切って飛び込んでみるというマインドセットが大事だ。まず2つを満たしてから、残りの1つを埋めにいく方法もあるため、最初から完璧を求めすぎずに行動を起こしてほしい。

 

2025年3月3日月曜日

海外就職レポート0021 結婚をきっかけにシンガポールに移住し、ジャパンデスクからピボット

 さて、前回と同様に結婚をきっかけに日本から海外へ引っ越し就職した方の紹介です。前回はアメリカでしたが、今回はシンガポールになります。日本で働いた金融の経験を活かしアジアの金融都市であるシンガポールで最初は日本人である事を強みに就職していくものの、少しずつ「日本語もできる事」が強みになっていくプロセスについて伺えました。特に日系企業のいわゆる現地採用には満足いく待遇でない事が多いと感じる事と日本語必須の仕事をしていてはキャリアの幅が狭まる事を聞けたのが印象的でした。

私見では日本経済は未だに大きく、海外に出ていく上では日本企業と仕事ができる事が未だに大きなメリットになると思います。相対的に日本経済の魅力が下がっていく中、早めにその強みを活かして海外に出ていく事は大事だなと感想を持ちました。

移住のきっかけ

  • 日本で日系・外資系の金融機関に勤務し、リテール営業や審査部門など幅広く経験。
  • 仕事のプロジェクトで出会ったシンガポール人男性と結婚し、彼がシンガポールへ戻るタイミングで一緒に移住を決意。2016年9月に渡星した。


シンガポールでの就職と転職

  • 渡星当初は無職だったが、たまたま米系金融機関が日本人を募集しており、2週間ほどで内定を得る。
  • その後、LinkedIn経由で別の金融機関から連絡があり、1週間ほどで転職が決まる。フロントからバックオフィスまで幅広い業務経験が、国を越えても採用されやすい理由だった。

職場文化の違い

  • シンガポール特有の文化よりも、会社ごとの文化の差に驚きがあった。例として「もうご飯食べた?」と日常的に聞いてくることなどが新鮮だった。
  • AIプロジェクトをはじめとする先進的な取り組みが進むアジアの一方で、日本は言語や商慣習の壁が原因でプロジェクトから外れがちである現実を知り、ショックを受けた。


日本語スキルとキャリアのジレンマ

  • 日本語が武器になるおかげで採用されやすい面はあるが、同時に「日本語必須」のポジションしか選べないリスクもあり、キャリアの選択肢が狭まるジレンマを感じる。
  • 日系企業のポジションは給与や労働環境の面で厳しいことが多く、日本語が「必須」ではなく「追加スキル」となるポジションを目指すようになった。
  • 渡星して8年ほど経った現在の仕事は、日本語が絶対条件ではない役割を得ており、より幅広いキャリアを築けている。


今後の展望とメッセージ

  • 結婚を機に予期せぬ形で海外へ飛び出すことになったが、シンガポールでの生活や仕事を通じて日本の置かれた国際的な状況を実感。
  • 「日本語ができます!」だけでは通用しにくく、「日本語もできます」というポジションが重要になっていると感じる。
  • 結婚によって当初の日本でのキャリアプランは変わったが、海外で幅広いチャンスを得られたことで視野が広がった。いまも「シンガポールに住んでいるのが不思議」と感じる瞬間があるが、結果的に多くの可能性と学びを得ている。

2025年3月2日日曜日

海外就職レポート0020 米国へ結婚移住し看護師の経験を活かし新しい資格を得て病院勤務

 さて、今回はご結婚をきっかけにアメリカに移住し、日本で看護師として働いた経験と新しいアメリカでの資格を活かし働いている方のお話を伺いました。特に印象的だったのは医療の現場での役割分担が大きく違い、働き方や待遇においてかなり改善されたという事という事でした。日本で働く中で専門職の方へメッセージが届けば良いなと思います。また、今後は看護師の資格を切り替えていく事も検討しているとの事で、発展していく事を願っています。

背景

経緯2015年にアメリカ人と結婚し、いつかアメリカに移住する想定で過ごしていた。 数年後に配偶者ビザのプロセスを開始し、ビザが下りた2019年にアメリカに渡米。 渡米後、資格取得と就職準備の下地作りのためカレッジのESL(英語学習コース)へ通い、文化的な理解を深めた。就職には直接役立たなかったが、人生経験としてはプラスになった。 日本で看護師として幅広い業務を経験していたが、アメリカでの資格のコンバートには時間と費用がかかるため、まずは採血技師の資格(2021年取得)を取得。資格取得の実習で訪れた病院に好印象を持ち、マネージャーやトレーナーとも関係が良好だったためその病院に応募したところすぐに採用が決まった。 現在はシニア採血技師として働きながら、契約のある施設からの検体の回収や手術専門病院への輸血血液配送(Courier業務)なども担当し、保険認証業務や事務的なエラー対応など責任範囲が広がっている。


アメリカと日本の仕事の差

日本では保助看法の下、診療上の補助と療養上の世話を含む多種多様な業務を看護師が担っており各個人の実務的な負担が重い。 アメリカは職務分担が明確で、日本では看護師がやる業務を看護助手が担い、患者の移送には専門のスタッフが配置されるなど看護師が専門分野に集中できる仕組みが整っている。日本での社会生活で染みついた「担当外でも自分でやる」習慣が、アメリカでは職務範囲外と見なされる場合があり、調整が必要。  給与や福利厚生も充実しており、例えば勤務しているグループ内の病院やクリニックの受診時に医療費割引制度などがある。SV昇進の可能性もあるが、給与と負担やストレスを照らし合わせると、看師資格取得することで収入の増加だけでなく多様な働き方をするようシフトすることを考えている。


これから海外で働く人へのメッセージ

「アメリカの仕事環境は日本よりも分業が進んでおり、待遇もいい。状況が許すのであれば、自身の可能性を広げるためにぜひ日本から飛び出して羽ばたいてほしい。海外生活で多様な価値観に触れることが自身の成長につながるだけでなく、日本での生活からは得られない将来への展望が見えてくることもある。」というメッセージを送っている。